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受け継がれてゆく想い

2015年11月29日(日)、第69回全日本団体選手権大会。
体操の聖地、代々木体育館。
体操人生最後の演技に挑もうとしている植松鉱治がいた。

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ふっとひとつ息を吐き、バーを見上げる。
得意種目である鉄棒に手を伸ばし、演技をスタートさせた。
徐々に旋回のスピードを上げ、高く飛んだ――。
いつもと変わらない、優雅で力強く大きな演技。
見る者を惹きつけて離さない。
離れ技を成功させるたびに大きくなる拍手と歓声。
あっという間だった。
23年間の体操人生を終える最後の演技は、まるで一瞬だった。
最後は伸身ルドルフ。
4年前、植松の体操人生に大きな影響を与えるケガの引き金となった技だった。
着地を終え、控えめにガッツポーズしたその拳に、その表情に、充実感が漂った。

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小学校1年生のとき、友達からの「トランポリンあるよ」の誘いがきっかけで体操教室に通い始めた。
遊園地にあるトランポリンが大好きだった植松にとって、トランポリンができるまでの時間は退屈だったそうだ。
ソフトボールのクラブチームに所属していたため、野球の方が面白い、とも感じていたという。
だが、中学校に入り、気合いをいれて練習していた野球より、あまり好きじゃなかった体操の方ができるようになってきたことで、少しずつ体操に気持ちが移っていく。

だが、まったく結果は出なかった。そして2年生の大阪府大会後に有名な中国人の指導者がいるというクラブチームに移ると、そこで一気に才能が開花した。

体操が面白いと感じ始めたのはこの時期からだ。
すると迎えた3年生の大阪府大会で優勝。
続く近畿大会も制し、初めての全国大会で念願の全国初優勝を果たしたのだった。
その後、清風高校でも2年生の後半から高校選抜優勝、全日本ジュニアで準優勝と結果を残していき、まだ体操競技部からオリンピック選手を輩出したことがない仙台大学へと進むことにした。
その先駆者となるために。

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ここで、植松は忘れられない試合を経験する。
2007年、大学4年生になり、ついに目標とするオリンピックイヤーを迎えた。
その予選となる全日本選手権。あん馬からスタートし順調に5種目をこなした。
そして最終種目のゆかの演技中、伸身トーマスで頭から落下。
脳震盪を起こした植松はフラフラだった。
演技は続けたものの、わずかな差で予選落ち。

「こんなに泣いたのは初めて」
溢れ出す涙を止めることはできなかった。
人目をはばからず、泣いた。
ただがむしゃらに頑張ってきたのだ。
それだけを目指して。だからこそ、悔しかった。
その涙に、植松の4年間の努力が詰まっていた。

なにが自分には足りなかったのか。体力?技術?練習量?……
試行錯誤しながら、次なる目標を見据え、ひたすら練習に打ち込んだ。
北京オリンピックは見なかった。
見ていなくても、“内村航平銀メダル”は知っていた。
だからこそ目標はインカレ(全日本学生体操競技選手権)個人総合での優勝。
内村に勝つ。完璧にやれば絶対に勝てるという自信もあった。
そして、インカレ個人総合で優勝を果たすのだった。

「あれはめっちゃ嬉しかったな」

そして再びオリンピック出場を目指しKONAMIに所属することになる。

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植松の体操人生で最も波が激しかったのが、この7年間だったかもしれない。
1年目、世界戦の代表入りを目指し出場した全日本選手権。1種目目のあん馬で落下を繰り返すと10点台の点数を出し、世界戦はおろか、ユニバーシアードの出場も逃した。
この経験から練習への取り組みの甘さを反省し、気持ちをいれ変えた。

そして社会人2年目の2010年、世界選手権出場を果たす。
その舞台で得意の鉄棒で決勝に残った。
もちろん目指すは金メダル。
植松にはそれだけの技と実力がある。
演技順は一番。競技前のあいさつが終わり、タンマ箱でプロテクターをつけようとしたとき、30秒のゴーランプがついていた。
通常であればプロテクターをつけ、手を上げたあとから30秒がスタートするのだが、審判の中で勘違いが起こったのかもしれない。
会場はオランダ。鉄棒を得意とする地元・オランダ代表のゾンダーランドが控えていたこともあり、会場は至近距離でも声が聞こえないほどの大歓声だった。
とにかく状況はつかめなかった。
「自分の気持ちを一切作れずに、まあもちろんその中で作れなかった自分も弱いなと思ったけど、でもあれは悔しかったな」
不完全燃焼に終わった。
だからこそ、もう一度世界の舞台でリベンジするために、技を磨き、己を磨いた。

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だがその後、植松の体操人生を大きく変えるほどの大きなケガを負う。
前十字靭帯の断裂。
1年で復帰を果たすもののまたしてもわずかな差でオリンピック代表から落選し、世界戦からも遠ざかった。
そして、ある決断をする。

2014年の世界選手権への出場を逃し、翌年の世界選手権に出られなかったら引退しよう、そう決意した。
自分に追い込みをかけた。 何としてももう一度、世界の舞台に立つために。
そして迎えた2015年の全日本選手権種目別。
世界選手権代表入りへのラストチャンスだった。
いい練習は積めていた。内容も悪くなかった。
だが、わずかに届かなかった。
「普通の大車輪でいがんで世界選手権にいけなかった。これが俺の体操人生やったな」。
技を終えた際に少し違和感があった。そこで手を持ちかえて逆手で大車輪を上がってくる、これがなぜそのときできなかったのか。「その要領の良さがあれば代表に入っていた。もうそこやな。まじめにいつもやってきたことをいつも通りにやってしまった。それによって結局、代表に入れなかった」
体操は技の難度を競うDスコアと技の美しさを競うEスコアの合計点で争われる。技をやるごとに得点が加算されるDスコアと違いEスコアは失敗や演技姿勢の悪さなどから得点が引かれていく。
0.1点や0.2点を争う世界で選手たちはしのぎを削る。
トップクラスになればなるほど、僅差になり、0.05差で敗れることだってある。

減点を減らすために何度も何度も練習を繰り返す。
だがその練習が、代表がかかった試合の中で判断を遅らせることになってしまった。

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挫折と喜び、何度も押し寄せるその波に挑み続けてきた。

「やめたいって?あんま思わんかったな。やめるのは簡単。だからそういう風には思わなかった」
楽しさを見い出せなかった幼き頃。
体操人生で初めて流した大粒の涙。
選手生命を揺るがす大ケガ。

それでもラクな方へと流されることはなかった。
ある信念がある。
内村航平に対しても、勝てないとは思わないこと。
常に、どんな相手に対しても、「勝つために何をするべきなのか」を考えて練習する。
「絶対に勝つ」と言えば「勝てるわけない」と言う人もいる。
別にそれでもいい。
「俺みたいな人がいっぱいいてほしいと思う。誰に何を言われようが、『勝つために俺は努力するんや』と」
世界選手権6連覇の内村が、最後に負けた男が、植松鉱治だ。
そう、あのインカレ。
偶然ではなく、必然の結果だった。
勝てると思っていない人間が勝てることなどないのだから。

 

不可能を可能にする男は、もうひとつ、誰もなしえなかった偉業を達成した。
2015年9月の全日本シニア体操競技選手権大会で、日本人初となる鉄棒の4回連続離れ技を成功させたのだ。

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このチャレンジへ向け、ずっと苦手だった「緊張感のコントロール」をスポーツ心理を勉強することで克服。
そしてその偉業を達成したことで、改めて体操の楽しさを知った。
一時は、自分の思っていることと、体がついてこなくなったと思っていた。
だが実際はそうではなかったのだ。
「そのことを9月までの間に気づかせてもらった。ほんまやったらもっとできるかもしれない。だけど俺は、一番気持ちのいいところでやめたいと思っているんだと思う」
体操の楽しさは技ができることだけではない。
いかに体を操れるか、どうしたら結果が残せるのか。
それもこれもすべて含めて、体操の楽しさ、おもしろさなのだ。

まだやれると思える、だからこそ今、引退する。
体がぼろぼろになるまでやり続ける選択肢だってある。
だけど、思いは変わらない。
“大好きな体操”を自分の中に残しておきたい。

「ずーっと一生楽しい時間が俺の中では過ごせるから」

だから今、引退する。

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最後の演技の舞台となった全日本団体選手権は特別な場所でもある。

植松が社会人1年目、2009年の全日本選手権団体戦。
KONAMIの最終種目は鉄棒だった。そのオオトリを任されたのが植松だ。
「完璧に決まって、優勝できたのが嬉しかった」

今では日本のトップチームに君臨しているKONAMIだが、これが全日本選手権団体戦での初優勝だった。

そしてこの試合は植松だけではなく、その光景を目の当たりにした選手にとっても特別な試合となった。
「インカレで負けてからすごく植松さんのことを意識するようになりました。全日本団体でも負けて(当時日本体育大学)、KONAMIが優勝した。そのとき絶対KONAMIに行こうと決めたので、存在は大きいです」
内村航平はそう語った。
今では公私ともに仲が良く、鉄棒談義も数えきれないほど。
だからこそ、世界の舞台で一緒に鉄棒の演技をしたかった。
だが、それは実現しなかった。

あれから6年後、同じ舞台で植松の現役最後の鉄棒演技を見届けた。
そして決断した。
「今日はすごくいい演技だったので、世界選手権以上に気が引き締まりましたし、いい流れを作ってもらえました。この流れをそのままリオ(リオデジャネイロ五輪)に持っていきたいと思います」

目指し続けたオリンピック出場をついに果たすことができなかった、植松の思いも背負って。

 

植松の体操人生は挑戦の連続だった。

傷つきながらも、戦い続け、決して諦める事なく頂へ挑戦しつづけた、その姿勢、その想い、その魂は確かに次の世代へ受け継がれていく・・・。
リオへ、そして強い日本体操界の未来へ。

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About chiharu

駆け出しスポーツライターとして某野球雑誌を中心に活躍中。大学時代に体操競技に携わり、それ以来、”体操愛”に目覚める。独自の人脈で”体操”に関する様々な情報を収集する。

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